哲学する心を養成する
結城啓二郎
「近頃の政治家には哲学がない」という指摘はずいぶん昔からあるが、では「哲学がある」とはどういうことだろうか?
哲学などと言うと難しい話になりそうだが、何のことはない。「自分の頭で考えられるか否か」という話にすぎない。自分で考えようとしないから、意見がブレるし、周囲の風潮や目先の損得に流されるわけだ。
例えば「婚活」である。一生の伴侶を見つけようというのに、年収だの学歴だの、果ては身長だのという外形的基準で互いに相手を値踏みし合うような行為は、恋愛とは無縁と言うより、真逆の価値観である。これで結婚生活がうまく行ったら苦労は要らない。まして今はネットの時代だ。婚活の成婚率が異常に低いことなどすぐにわかるはずだ。
ところが、世間が婚活、婚活と言うものだから、自分の頭で考えずに婚活をして金と時間とエネルギーを浪費してへとへとになり、残るのは徒労感と自己不信だけという男女が多いのが実情だ。
もちろん、これは一例に過ぎないが、メディアの言うことを素直に聞いて行動しているようでは「あなたは哲学がない」と言われても反論できるわけがないだろう。
実は、この辺りの事情は、「近頃の若い者は」などと言っている年寄りより青年の方が、「直観的に」自覚しているのである。若者のテレビ離れがそれである。「テレビはクソだからさあ」と言う若者は筆者の周りにはごろごろいる。
一方、習慣のように、お昼や夕食の時にNHKのニュースを漫然と見て事足れりとしている年寄りがいかに多いことか。「世界最古の洞窟の落書きが解読された。近頃の若い者は、というのであった」というジョークは永遠に新しいのかもしれない。いくら自分では批判精神が旺盛だとうぬぼれていても、自分の頭で考える努力を放棄した年寄りの意見など、いちゃもんか、愚痴、あるいは床屋談義にすぎない。
ひるがえって、若者は哲学しているのだろうか? 悲しいことに、直観的に「何だかおかしいぞ」と感じながらも、その世相に対する違和感を理論立てて考える方法を知らないように見える。もちろんそこには、受験勉強に象徴されるような日本の詰め込み教育が大きく与かっている。そこで、この問題、すなわち日本における「哲学の貧困」について、ヨーロッパのエリート教育を例にして考えてみようと思う。
わが国の青少年が「哲学のようなもの」に初めて触れるのは高校の倫理社会の授業においてであろうと思われるが、この科目は「哲学史の概論」であって、哲学するとはどういうことかを教えるのではない。ソクラテスやベーコン、孔子や老子、あるいはモハメッドがどんなことを考えていたかを学ぶこと自体は無益とは言わないが、大切なのは、そうした知識よりも、ものごとの意義と本質を自分の頭で考える訓練である。
この点、ヨーロッパのエリート教育は半端でない。フランスを例にとると、十歳(日本の小学四年生)の段階で、将来、学者や社会の指導層への道を歩むか、実社会に出て職人や商人になるかの選択が行われる。この点はイギリスもドイツも同様である。さて、そうした選抜は中学校に進む段階でも行われ、エリートの卵たちは「リセ」(高等中学高校)に進むことになる(アンリ?世校は日本でも有名だろう。大昔の東京の日比谷高校みたいな位置にあると言えば話が早いかもしれない)。
さて、このリセのカリキュラムでは、中学で週に六時間、高校になると週八時間も哲学の授業がある。つまり、これだけの時間をかけて、歴史、文学、政治、社会、そして宗教など、いわゆる人文科学のさまざまなトピックを「哲学する」わけである。皮相な知識の詰め込みに明け暮れる日本の受験生と比べてみると、将来どういう人間が出来上がることになるか、彼我の差を思うと背筋が寒くなる。
そしてリセを卒え、バカロレア(日本のセンター試験に相当)に合格し大学に進むと、卒業後はさらに政界、官界、実業界の指導層を養成する大学院に進むわけだが、ここでも哲学的思索が要求・尊重されるのは言うまでもない。
どんな具合かというと、外交官試験の最終口頭試問を例に、よく引き合いに出される譬え話をご紹介しよう。
出題は、「ドナウ川の水深はいくらか?」である。
「解りません」は失格。無知だからである。
「Xメートルです」も落第。ウソだからである。
正解は、「川の深さは場所によって異なるから、すべての地点の水深は答えられないが、私の知る限り、どこそこの水深はYメートルであり、また何某の地点ではZメートルである」
この譬え話の眼目は、次のようなことかと思う。
――外交というのは、一国の国益を賭けて、他国と切り結ぶ作業である。無知な場合には侮られ、時によっては侵略されかねないし、ウソは絶対に許されない。信義に反したら相手は怒って戦争になるかもしれない。では、どうするか? 持っている限りの知識と情報をもとに、無知だと侮られず、また決して騙すことのない誠実さを相手に伝えつつ、自国に有利なように交渉をする能力を試しているのである。
哲学する、つまり、ものごとの本質や意義を考える訓練を積み重ねてきたことのない人間に国益など託せるはずもないが、誤解していただきたくないのは、ここで私が論じているのは英才教育の薦めではない点である。そうではなくて、日本の「民度」を論じているのである。
たとえば、若者の「活字離れ」がよく指摘されるが、私は納得していない。どころか、これは「統計のウソ」だと思っている。確かに若者が本代をいくら払っているかを調査すれば、携帯電話の料金を払うためばかりでもないだろうが、昔より少ないかもしれない。
しかし、それなら中年以上のオヤジどもはどれだけ読書をしているというのか? 彼らの読書統計も取らなくては、とうてい公平とは言えない。残業と焼鳥屋通いの毎日で、せいぜい、センセーショナルなニュース番組を見、オヤジ週刊誌を読んで世間の出来事の意味がわかったような気になっているだけではないのか? かくして「世論」が形成されて行く。「バカな若者より、バカな年寄りの方が始末が悪い」のは昔から洋の東西を問わないのである。
では、何が問題なのか? 先に述べたように、若者、オヤジを問わず、哲学不在が蔓延していることが問題なのだ。一年中、正月のようなアホ番組を垂れ流しているテレビを漫然と眺めて、無意味なバカ笑いを繰り返すタレントたちを「うるせえな、こいつら、マジ、バカだよな」と思っているうちに、どんどん哲学しなくなってゆく。そうした社会状況こそが問題なのだ。
この深刻な状況を打開するには、哲学する、つまり「何事も自分の頭で懐疑的に考える。ちがった視点から考える」習慣を身につける訓練を教育の場で保障しなければ、わが国の前途は本当に暗い。「教育は百年の大計」と言われるように、道は長いだろうが、手をこまねいている余地はないのである。
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